2023/1/1(日)☆
16時4分。年が明けた。あけましておめでとうと、誰に届いているかもわからないけど言っておこうかな。今年もよろしくお願いします。

12月29日に仕事納め(と自分で決めた)だったけど、別に納まった感じも区切れた感じもなく、でも精神衛生上これ以上は仕事をしない方が良さそうだなと思い強制終了した。ちょっと罪悪感。人生そんなにうまくいかないか、とシュンとした気持ちを引きずりながら、大晦日は岐阜にあるお父さんの実家に挨拶をして、愛知にあるお母さんの実家で年を越した。お父さんの実家にはおじいちゃんが一人で住んでいる。お母さんの方には、叔母さんが一人で住んでいる。

ここ3年くらいの間に、私の祖父母にあたる人たちが立て続けに亡くなった。今は父方のおじいちゃんだけだ。私はおじいちゃんのことを何も知らないし、おじいちゃんも今の私のことをきっとほとんど知らない。お互いおしゃべりな感じでもないからあまり話さない。会うたびに「どんな仕事をしているの?」と言ってきて、その度に同じような説明をするだけだ。おじいちゃんはその度にうんうんと微笑みながらうなずく。でも忘れたから聞いているわけではないということはなんとなくわかる。優しい人だ。

おじいちゃんと会うのは1年ぶりくらい。おじいちゃんは、金髪になった孫を珍しそうに眺めては「変わってしまった」と何度も呟いていた。変わってしまいました、と私はいった。いつから敬語になったんだっけな。これまでどうやって会話をしていたか忘れた。それから、お茶とおまんじゅうを食べながら一緒にぼーっとテレビを見ていた。バラエティ番組の再放送。一般人の父親が娘たちを喜ばせたいと、体を張った特技を披露するというもの。その人は一生懸命で、頭に血が上り鼻血が出たりもしていたが、娘たちは引いていた。笑えなかったし、くだらないと思ってしまった。おじいちゃんは食後の眠気でうつらうつらとしながら黙ってそれをみていた。88年生きている人は、こういうのをみてどんなことを思うんだろうか。

しばらく黙ってテレビをみていたら、おじいちゃんが急に話し出した。脈絡がなかったから最初はよくわからなかったけど、おばあちゃんが亡くなった日の話だった。おばあちゃんは亡くなる少し前に足を悪くして、通院しながらリハビリをしていた。少しずつ回復していたが老人ホームに入る予定で、すでに入院日の目処も立っていたようだった。だから、亡くなったのは突然だった。自宅で倒れて病院に運ばれ、その20分後くらいに息を引き取ったと言っていた。おじいちゃんは倒れた時間や病院に運ばれた時間や息を引き取った時間を、とても正確に覚えていた。「(病院に運ばれた後)一つの言葉もかけられないまま、自分は外で待っていただけだった」と何度も繰り返した。自分の想像もしえないようなことで、私はおじいちゃん首の下くらいのところを見ながら黙っていることしかできなかった。

死ぬとはどういうことなのか、死んだらどこへ行くのか。誰しもそうだと思うけど、私は幼少期から「死」についてよく考えていた。変化や未知へ向かうことの恐怖と、いつか終わりが来るということの安心感。考えるたびに、それらが変わりばんこにくるような不思議な感覚になった。自分自身の死に対しては、幼少期から「救い」だという思いの方が強かった。怖いのは、死ぬ瞬間の生の痛みだ。生と死の間にある苦しみ。だから、自分が死ぬこと自体は怖くなかった。でも他者の死は怖い。「死」というものと真正面から向き合わざるおえないから。死に向かった後も、続いていかなければいけないから。だからこそ、死に立ち会った時に自分の身を守れるように、なるべく特別なものにしたくなかった。そういう意味で、お葬式もお通夜も墓参りも嫌いだった。悲しいとか惜しいとか、そういうことを言わないでほしいと思った。

そんな自分だから、おじいちゃんの抱えているものがどれほどのものだかとても想像できない。22年しか生きていない人間にとって、60年とか一緒にいた人がいなくなった時の気持ちなんてわかるはずがない。おばあちゃんにもう会うことができないのはさみしいし人の気持ちに優劣なんてないとは思うけど、でもおじいちゃんと共有することはできない。相変わらずおじいちゃんの首の下のところを見ながら、ぐるぐると整理できない頭で考えていた。

おじいちゃんのことを記録せねば、と思った。生い立ちとかはわからないけど、せめて今の写真を撮っておこうと思った。一度トイレで気持ちを整えてから、「写真撮ってもいいですか」と言ってみた。おじいちゃんは「なんやなんや」と座っていたコタツの机の上を片付けて、ニコニコしながら「ここで」といった。オートのカメラはフラッシュをたかなかったから、まぶしいかもしれません、と言ってもう一度シャッターを押した。「遺影にする」と言った。マリッシュの店主も同じことをいっていた。反射的に、いえーい、と言いそうになり、慌てた。



2022/8/23(火)☆
18時38分。前回の日記を見返して、2ヶ月半前の私ってこんな感じだったんだ〜と思う。6月後半からずっと走り続けているような感じがあり(3年目にして、仕事の忙しさは夏がピークだということに気づいた)、ハッとして今日、夏休み最終日だった。今年の夏休みは4日間とれ(週休二日も換算)、最初の2日間はわくみさんが住んでいる尾道に行った。家に泊めさせてもらい、近所の海や山や神社に連れて行ってもらって夜はスーパーや商店街で適当に買って食べ、旅行というより知らない土地で暮らしをした。しかしわくみさんは、自分の家で私とお酒(これも別に地元のお酒とかではない)を飲みながら、「私も旅しているみたい」と言っていたので面白かった。尾道の街は、海と山に囲まれた素敵な土地だった。でも市街地という感じで開かれた雰囲気だったから、距離の遠さほどに「異国の地」感はなかった。一人で住むなら結構住みよいかも、とも思った。でも自分が住む感じではないなとおもった。最終日、ものすごく久しぶりに水着を着て海に入った。尾道市内の「向島(むかいしま)」という離島の海岸。観光客みたいな人はほとんどいなくて、地元民(もしくは別荘持ち)のような2、3組しかいない静かな海岸で、砂浜にはゴミひとつ落ちていない、綺麗な場所だった。水も透き通っていて、水クラゲがぷかぷか浮いてた。そこに首くらいまで浸かった。浸かりきってしまうと入水時の海水の冷たさも感じなくなって心地よかったけど、ずっと浸かっていることがなんだか少し怖くて、そのまま出たり入ったりしながら1時間くらい過ごした。小さい頃から、自然は居心地がいいけど、気を抜くと殺されるような感じがする。

後半の2日間は家の片付けをしたり本を読んだり、手紙を書いたりしながら普段の生活ではできていなかったことを、できるだけテキパキせずに、ゆっくりと消化した。その内、初日の夜ご飯〜翌日遅めの朝ごはんまでは恋人の家で過ごした。月頭に一緒に行った京都で買ってきた日本酒と漬物、生湯葉、和菓子(ブライアンイーノ展で購入)、そして私が広島で買ったレモンチェロとつまみなどを食べた(とにかく口に運ぶもの全部がおいしかった。特に生湯葉は涙腺がゆるむほどで、私も大人になったなと思った。飲みすぎた)。恋人はいろんな土地に行くのが好きで、もう2年弱くらい、毎季節どこかへ連れて行ってくれる。私の家族には旅行を好む人が特別おらず、遠くへ出かける習慣はなかったので、いつも新鮮で楽しい。人生の中で重要な存在となっている人やものは、いつも私を、自分一人では絶対にたどり着けないような所へいざなってくれる。恋人の場合は物理的に、だけど、精神的にもそうだと感じている。感謝。節々で思うけど、あんまり本人には言えていない。難しい。

人に執着したくないし左右されたくない、と思いつつも、そう思っている時点でずっと翻弄されて生きているんだということを自分の中で認めはじめたのはやっと最近。大切に思っている人たち(たち、と付けますが本当に少数)のことが大切すぎて一緒にいるためならどんなことでもしたいという気持ちと、いつだって独立していたいし個として強く見られ続けたいという自尊心が自分の中で戦い続けている。どちらに傾いても独りよがりでかなりかっこ悪い。それらとうまく付き合っていけなくて、思春期丸出しで苦しんでいる。時が経てば、そういう自分も懐かしく、かわいく思えるのだろうか。でも生きてるってことはみんな何かしらに苦しんで、必死なんだよなとも思う。そういうものを受け流し、やり過ごし、生き抜くカギは生活の魔法?「今」というものに美しさや尊さを見出し、いちいち点を打って繋ぎとめておかないと正気で生きていけないのでは?そういった生き永らえるための術のようなものは、いつしか民話になっていくのだと思う。イリナ・グリゴレというルーマニア出身の人類学者の「優しい地獄」という自伝を読みながら、一人の人間のナラティブがまさに今、本を通じて私に語り継がれているということを感じている。ずっと目の奥に涙が溜まっている。



2022/6/5(日)☆
9時22分。ここ数日、くもりが多くなり気温もあがってきてムシムシする。梅雨か〜、梅雨だなと思っているうちに夏が来るんだよな。

天気はモヤモヤしているが、最近の私は割とスカッとしている。いろんなものを見に行ったり、人にあったり、仕事以外が割と活発的な感じ。インプット期間なのかな。少し前まで(半年くらい?)は本当にガツガツとつくってばっかりだったからその反動かも。自分も色々変わってくんだなと、これもいつもあとから気づく。

インプットの話でいうと、昨日の石田英敬さんの授業がものすごく面白かった。特に、最後にさらっと言ってた「原理を知る」っていう言葉にグッときた。「ゲームプレイヤー」ではなく「ゲームマスター」でいること。つまり客観的視点を常に持つということ。言葉でいうと簡単なんだけど、それを自分の中にちゃんとインストールすることで世界との付き合い方は多分かなり変わっていく。オードリー若林さんの本『表参道のセレブ犬と〜』の中で出てくる「資本主義は世界の法則ではなく人間が作ったシステムだ」という気づきもまさにそれだ。最近みたルー・ヤンの『物質界の大冒険―ゲームプレイ動画』にも繋がってくる気がする。「物質世界」をゲームの中に置き、世界とプレイヤーを切り離した状態(神の視点)で「死生観」という本質的な問いに様々な角度から向かい合わせる。物質世界に生きながら、物質世界を冒険し直す。それは、鑑賞者が「原理を知る」ためのプロセスなのかもなと思った(ちなみに、「冒険し直す」はここ数年の私の中のキーワード)。

いろんなものが繋がり、なんだかぼーっとする。「つじつまが合っている」ってこういうことなんだな、きっと。グーッと線を引いていけば行き着く先は結構一緒で、そして行き着いたら案外シンプルだったりするんだけど、そこまで行けずに途中で止まっちゃって分かり合えないんだ、きっと(というコミュニケーションの失敗で最近反省した)。尊敬する人やまっとうだなと思う人はみんな、ある程度その「行き着く先」までいってるんだろうな。私も早くそうなりたいと思うけど、道のりは長そう。ウ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!



2022/5/21(土)☆
9時35分。ここ1ヶ月くらい、あみものにハマっている。このよのはるのリサさんやWAIFUの緑さんに教えてもらってから、ラジオを聴きながらよなよな編んでいる。一度編み始めると結構やめられない。思えば、私の周りのあみラーたち(結構いる)はみんな口を揃えて「手が止められない」と言っていた。「とにかくずっと編んでるんだよね」「いつも持ち歩いてて、電車とか隙間時間で」と。あみものをやってなかった時は彼、彼女らの作品を見て、「これつくるの結構大変じゃないですか?」と言っていたけど、やり始めた今ならわかる。中毒と言ってもいいくらいやめられない。昨晩もコースターくらいのオーナメントを作ろう!とおもっていたら編みすぎて帽子になった(画像参照)。

p.s
なぜあみものがやめられないのだろうか、と編みながら考えていたら、「筋肉は裏切らないので」というボディービルダーの言葉を思い出した。なるほど。たしかに、筋トレは鍛えた分だけ筋肉がつく。あみものも、手を動かした分だけ編み上がる。一緒のことなんだなあ、と思った誕生日の朝。



2022/5/13(金)☆
23時52分。久しぶりにブルースブラザーズをみて、「悩んでいる暇があったら踊ろう」っておもった。



2022/4/14(木)☆
19時42分。春の訪れをあんなに待ちわびていたのにいざ訪れたらあっけなく(というかすでに通り過ぎようとしてる?)、「そんなもんか〜」って気持ちにもなっている。桜が散るのも一瞬だった。ていうかもう4月も中旬じゃん!

3月末〜4月にかけては本当にモリモリで、っていつも言っている気がするけど、でも本当にいろんなことが起こり、去っていった気がする。冬の間に準備していたり進めていたことがダダダっとフィナーレを迎え、また新たに始まりだした。GAKUでも色々なクラスが最終回を迎え、レポーティングやら報告資料やら来期授業の授業企画やら提案資料やらでてんやわんや。年度をまたぐってこういうことなんだね。社会人3年目にして初めて実感している感じ。今はちょうどその間にいて、今日は年末年始以来の、仕事もせず遠出もしない休日。この機会に、終わったことと始まったことを整理してみるよ
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まずは終わったこと。1つは、3/21に小金井でやった流ローカルフェス。私自身がとにかく好きでリスペクトしている人を出展・出演者に招いて、トークショーやワークショップ、ライブ、ショップをまぜこぜにしたイベントを開催した。1人で主催をやったから当たり前なのかもだけど、「こんなに好き勝手やっていいのか、、?」と不安になるほど自由に企画し、ほぼ最初の企画通りに全プログラムをやった。完全に自分主体でこういうことをやるのは初めてだったので準備がかなり大変で、心身ともに追い詰められた時もあったけど、今考えると追い風は吹きまくっていたと思う。リーダーがしっかりしすぎないほうがチームとしてかえってうまくいくって何かの本で読んだけど、そういうことか、と今回を通してなんとなく意味を理解した気がする。イベント当日は好きな人たちを一堂に会した、まさに桃源郷のような風景で、ちょっと泣きそうだった(映画「BIG FISH」のエンディングみたいだった)。イベント当日もだし、イベントをやるにあたって改めて出展してくれた人たちと会話して、ものづくりの尊さに、というか、個々人の何かを作ることへの熱や切実さに触れられたことが本当に嬉しかった。作っているものそのものももちろん好きなんだけど、私がなんでその人たちに惹かれるのかをちゃんと理解できた気がしたし、その上で自分がこれからやっていきたいことを、今回のイベントを通して確認できたように思う。本当によかった〜〜〜〜〜。

終わったことの2つ目は、「boyboyboy」のZINE。昨年末のイベントでぼぼぼのれいなさんに出会い、トントン拍子でルックブック的ZINEを作ることになった。高校1年からこれまで、あまたのZINE(今になってはほとんど目も当てられないような出来、、)を作ってきた私だけど、誰かに正式に依頼してもらって作るのは初めてだった。しかも撮影から編集、本のデザインまで!れいなさんは本当に誠実な人で、同じではないけど、でも自分とすごく近いところを歩いている人だと思った。なんていうか、同じ種族?先祖が同郷?前世で友達?わからないけど、精神的になんとなく近い、のニュアンスは伝わるだろうか。そういう思える人に出会えたのは本当に嬉しいことだし、その人に対して、自分が何かできるって幸せだ。れいなさんとは、次回もものすごく面白そうなことが始まる予感!

新しく始まったことは、「omoomocity」っていうプロジェクト。名前の由来は「面白いことは面倒くさい = 面面(おもおも)」から来ている。詳しくは(本当に詳しく書いてあるかは別として)、WORKSページを見てほしい。GAKUでの私の上司であり、18才のときから仕事でお世話になっている熊井さんと一緒に始めた取り組みで、熊井さんからコンセプトが送られてきた時、とにかく「わかる!!!!!!!」って感じだった。大変だけどやりたい、やらざるおえない、大変だと思わずにできちゃうっていう衝動的感覚。どんな些細なことでもそういうの、誰しも感じたことあるんじゃないかな。少なくとも、流ローカルに出展や出演してくれた人たちのものづくりや活動からはそのバイブスを感じる。「生きてる」ってそういうことなのかなって思うし、それを感じられる営みって、ものすごく人間らしいんじゃないかと思う。そんな瞬間に立ち会いたいし、生み出したいし、一緒に作りたい!というプロジェクト(になるといいな〜)。第1弾は、渋谷や新宿の路上を拠点にし、いろんな地域を旅しながら音楽や似顔絵、編み物などなど、色々やっているアーティスト「このよのはる」と一緒にイベントをやる。ヒカリエの8階で会場作りから似顔絵、トーク、ライブ!まるっと1日楽しむ!



2022/3/8(火)☆
19時46分。あんなに書けなかった日記がこの頻度で続いているのは本当にすごい。なんでだろう、やっぱり春だからかな、と、なんでも春のおかげにしている。いま自分の中で、いろんなことを少しずつ整えていこうという気持ちが湧いてきている感じがあって、それが何の準備なのかはわからずにいるけど、でもこのまま進んでいきたいなと思ってる、なんとなく。

今日、いくつかの打ち合わせの合間に、以前こがねいのZINE制作でお話を聞きに行った老舗文房具屋さんにイベントのチラシを渡しに行った。そこは老夫婦がやっているとこで、文房具屋さんなのに店内の一角に駄菓子コーナーがあったり、近所の人が立ち寄れる「憩いスペース」を作っている愛おしいお店。

「こんにちは。3/21のイベントのチラシができたので持ってきました」
「?なあに、それ」
「あ、わたし、この前まちの冊子を作っていた者なんですけど」
「ああ、あなたね。ごくろうさま。ちょうど今、あなたの本を手元においてたのよ。ごめんなさいね、顔を覚えられなくて」
「いえ、いいんです」

こういうやり取りのたびにうれしくなる。こういうことだよな〜。自分の作ったものを通してだれかと繋がれている感じ。もともと薄い顔だし、全然覚えてもらわなくてOK。さかのぼれば幼少期からだと思うんだけど、自分の生み出したものが自分と誰かの架け橋になったり、自分を遠いところに運んでくれている感覚がいつもあって、それはものとして形があるかないかとかクオリティがどうかとか、どのくらい売れたかとかは実はあんまり関係なかったりする。もちろん満足のいくものをいつも作りたいと思っているし、多くの人の手に届くことはうれしいけど。でも結局あとから考えると、それを生み出したことそのものが次の何かを掴んでいく踏み台になっている気がする(わたしは高校の時からZINEを作っているけど、今見返すとだいたい恥ずかしい出来だと思ってしまう)。今回のこがねいのZINEだって、まちの人たちからしたらデザインとか写真の出来とか全く気にしていないと思うし、正直「若い人がたのしそうだな」くらいなんじゃないかなと思う。でも、それでよくない?というか十分すぎるくらいうれしいし届いてると思う。  

届く届かないってどういうことなのかって時々考えたりするけど、自分がうれしくて、それを誰かも一緒に喜んでくれるってことでいいんじゃないかな。自分の中でコンセプトを持つことって超大事だけど、その部分を汲み取られなくても、いいね!って思ってくれたらわたしは別にいいかな。どんなものにも言えることだけど、そのもののクオリティや綺麗さとか好き嫌いの前に、「清々しさ」ってあるなと思う。理解できないけどいいな。そのテイスト、あんまり好みではないけど悪くないな、みたいなこと。なんだろうな、「よくわからないけど、それが存在している世界はGOODだな」みたいな?そういうものに出会うとなんかうれしくなるし、自分も作っていきたいと思う



2022/3/4(金)☆
19時11分。ここ数日、朝早めの時間からの打ち合わせや夜までの作業が続いていたけど、今日でなんとなく区切りがついたので夕方からちょっと休憩。

最近の私はゆったりした心持ちである、と前回の日記にも書いているけど、そのおだやか具合があらわれてるものの1つに「お花にハマった」がある。2月あたまくらいに職場で大きな花束を2つももらったのがきっかけ。最初はとりあえずでっかい水差しにいれていたのだけど「なんだか窮屈そうだな」と思い、家にあるあらゆる空き容器にいけ始めたら楽しくなってしまった。一本一本で見てみるととちょっとずつ様子が変わっていくのがよくわかり、お花がいきものであることを改めて実感し愛着がわく。あといっぱい並べていると、小動物が群れをなしている感じでかわいい。かわいいからなんか触りたくて、家にいる日は時間によって日光の当たる場所へ移動させたりしている。枯れた葉をとったり、水を吸いやすいように茎をちょっと切ったり(いけばなの先生に教えてもらった)しながら、もう1ヶ月くらいうちにいる。かわいい。名前をつけると悲しくなりそうだからつけない予定。

いきものと暮らすのってこんな感じなのかな〜とぼんやり考える。私は小さい頃からいきものが好きで、動物図鑑をみながらずっと犬や猫を飼いたいと思ってきたし、夏休みにはセミやトンボを捕まえていたし、おばあちゃんちでカブトムシやカマキリを飼っていた(花とは全然違う感覚で、愛着というより観察対象だった)。今も動物と暮らしてみたいなと思うけど、大人になるとそんなこと簡単に言えないような怖い現状が見えてきてしまった。悪質ブリーダーとか、風俗街にある不穏な空気のペットショップとか、野生の機能を持ち合わせいないのに山に捨てられちゃった猫とか。私はペット経験がないので、ペットと人の良い関係性とか、飼い主のあるべき姿とかは全然わからない。だし、猫を捨てるような人の気持ちも全く検討がつかない。でもこれは、恋人とか結婚相手とか、人間同士が新たに親密な関係性を築いていくこととも通じるところがあるんじゃないかと思う。

ちゃんと仕事を始めてから2、3年、「自分がいっぱいいっぱいだと、目の前の大切な人ほど優しくできなかったり、重要なこととうまく関われない」っていうことを本当に実感していて、これによって、これまでの人生の中で取りこぼしてしまったものがたくさんある気がしている。星の王子様も「本当に大切なことは目には見えない」って言っているし、信頼できる大人も「本質はいつもわかりづらいところにある」と言っていた気がする。それにフロムも「愛することは技術だ」と言っている。引用ばっかでうざいかもだけど、つまりは、本当に自分にとって大切なことに辿り着くためには、自分で掴みにいく必要があって(これはあくまで言い方だけど)、それは突然目の前に立ち現れるのではなくてきっとずっと目の前にあるんだけど、ちゃんと認識するためにはそれ相応の経験値や準備が必要だということ。口ではいくらでも言えるけど、私は今、まさにそれに苦しんでいるよう!

●最後に、今日読んだ近藤聡乃のエッセイの中に2つ、めちゃおもしろ〜となったことがあったのでメモします。

①「きやきやする」という古い日本語の表現。「胸がきやきやする」と使用し、「なんとも説明しがたい、懐かしいような、気がかりなような気分」のことで「既視感」が同義語?とされているらしい。きやきやする!昔の人は、説明しがたい気持ちに「きやきや」という音を当てたのか!と思い、面白かった。

②近藤さんは、忙しい時や不安な時にどうでもいいことで頭をいっぱいにしたくて、芸能人のゴシップニュースを見るのだと書いてあった。これ、超わかるな〜。心に余裕ないとき、私も全然身にならないこととか、浮ついたこととが気になってる。で、余計に不安になって虚しい。友達のあいだでよく聞く「SNSやめたい」はここからきているのかも。SNS、ポジティブに活用できる部分もものすごくあるもんね。



2022/3/1(火)☆
11時49分。今日から、主催しているイベントの来場申し込みが始まった。3/21の春分の日に、武蔵小金井の高架下でやるやつ。お正月が明けてからずっとこの準備や調整でバタバタしていて、加えてGAKUの方も、今期授業の終了と来期の始まりの狭間の時期でものすごくやることがある(しかも急ぎの)。はじめの方はかなり焦っていて「自分そろそろヤバいかもな〜」と思っていたけど最近はだんだん慣れてきて、春に向かっていろんなものが芽吹く予感を感じながら、不思議とゆったりした心持ちになっている(これが「台風の目」的感覚なのかな)。

台風とも繋がるけど、最近は手を動かすことの「遠心力」みたいなものをすごく感じている。3/21のイベントもそう。このイベントはわたしが昨年夏に作った小金井のZINEを通じて出会った同世代の友達や街の人たちとともに生まれたもので、ZINEを作らなければ絶対に実現しなかった。だし、イベントを作り上げていく過程でもすでに遠心力が強まっている感じがある。イベントの構想を話すうちに、いろんな人やものを巻き込んでどんどん規模が大きくなって、気づいたら出展者が30人くらいになり、地域の大学生や子どもたちとも繋がれて、小金井市やJRの後援・協力までもらっていた(わたしはフリーランスだし屋号がないので、後援申請書類の団体名にとりあえず「流ローカルフェスティバル実行委員会」と書きながら、自分の怪しさとちっぽけさにウケた)。巻き込まれている人たちも巻き込んでいる人たちも、利益とか忖度とかっていう空気が全然なくて、「目の前に来たからとりあえず飛び乗っちゃうよ〜」的グルーヴ感にあふれているのが本当に心地がいい。何かをつくったり起こしたりするにはもちろんいろいろハードルがあるけど(社会のシステムとか時間のなさとかお金とか)、続けていったらそれがひっくりかえる(もしくは手の中に収まる)はずだってどこかで信じている自分もいる。正義はその時々で変わるけど、ワクワクする気持ちとか優しいものに触れたときのあたたかさは変わらないから。

そんなふうに、自分自身がものづくりや行動する意味について考えを巡らせながら、ふと「塊魂」のイメージが浮かぶ。塊魂ってみんな知ってるかな。どのくらいの知名度のものかはわからないけど、幼少期、テレビやゲームにあまり触れてきていない私のわずかなゲームプレイメモリーの中に「塊魂」があって、ビジュアルとか音楽とかが結構好きだった。宇宙人が謎の球体を転がしながら星の中を練り歩き、その球体にいろんなものをくっつけて自分の惑星を作るっていうストーリーで、改めて思い返すとまじで変なゲームだけど、それはいろんな人やもの、世界と出会ってインプットし、自分なりにコラージュしてアウトプットすること、つまり私にとって街のZINEを作ることであり、人が生きる営みそのものでもあると思った。そして、「塊魂」では巻き込む対象を選ばない感じが良い。とにかくそこにあるものを片っ端から全部くっつけていく。だから、球体から木が飛び出ていたりして、形がいびつで動きもガタガタ。でも全て巻き込む。で、そのうちにくっついているもの同士が調和してまあるい形に戻っていったりする。そのひらかれ具合と、身を任せていると勝手に整っていく感じが本当に良い。

12時52分。いいところなのに、次の打ち合わせに間に合わなくなってきたので一旦中断! 自分自身が街を舞台に活動する理由やこれから何したいかということについて、もっと深く考えて、整理したい!こんな気持ちが湧いてきているのも、春に向かっているからなのかな。



2022/2/9(水)☆
21時17分。今日は月に1回の職場に入れない日(そういう日があります)だったのでテレワーク。午前中からzoom打ち合わせがあり、そのまま13時過ぎまで作業した。

お昼ごはんを食べ終えた15時ごろ、私は「1日中家にいられない」という特性を持っているので、PCをリュックに入れて外出。いつもは吉祥寺駅前ののれん分け系ルノアール(徒歩10分)に行くのだけど、今日はなんとなくたくさん歩きたい気持ちだったので、三鷹駅前のルノアールに初めて行ってみた。そう、ルノアールが好き。なんで好きかというと、アイスドリンクが短足のワイングラスみたいなグラスで出てくるから(ちなみに、系列店はチープだから好きじゃない)。

家から三鷹駅前店までは、思ったより遠かった。35分くらい。三鷹台と三鷹駅って、全然方向違うんだな〜と歩きながら思った。井の頭公園のいつも通らない敷地も、玉川上水沿いの道も歩くのが楽しかった。ちなみに、ルノアール三鷹駅前店は敷地が小さめの2階建てで、建物の造りが居酒屋さんみたいだった(2階へどうぞ〜みたいな?)。

真面目に作業を進めて19時半ごろ、もうムリ!と思って強制終了。わたしは、「途中休憩を挟んでも8時間以上パソコンの前に座っていると頭がショートしてしまう」という特性も持っているようだと最近わかってきた。帰りは成城石井に寄りたかったので、行きとは違うルートで三鷹駅から吉祥寺駅まで歩いた。住宅地を歩くのは、愉快な気持ちになるから好き。誰かのお家の晩ごはんの匂いを嗅いだり(今日はカレーだった)、道沿いに貼ってある張り紙や看板をいちいち読みながら歩いた。家に囲まれた大きめのオフィス?的な施設の煌々と明かりのついた窓に「ご自宅で!」と書いてあるのをみて、そうやってうたっても帰れないものは帰れないよね、と人ごと程度に切なくなったりもした(あと、井の頭公園の林の中に「猛毒です!」という言葉とともに、嘘みたいに真っ赤なキノコの写真がついたポスターが貼ってあって、嘘だろ、と思った)。

これを書きながら、日記らしい日記を書いているな〜と思い、恥ずかしくなってきた。と同時に、目的もなく写真を撮る時のわたしってこういうマインドかもなと思った(カメラはいつも持ち歩いているけど、撮れる時と全く撮れない時がある)。それは、フラフラ歩きながら、頭でぼーっと考えながら、目では宝探ししてる、みたいな感じ。こういう状態をちゃんと保ちながら、もっと写真も文章もアーカイブしていけたらいいのだけど。まあ人間だから、そんなにうまくいかないよね。近田春夫も「調子悪くて当たり前」っていってるしね。最後に、成城石井で購入した歯磨き粉みたいなビジュアルのチューブ型アンチョビペーストがちゃんとおいしいことを願って。またね〜



2022/2/7(日)☆
22時18分。確定申告の季節がきた。どう考えても間に合わない。困ったな〜



2022/2/3(木)☆
23時43分。やるべきことが山積みで、本当は全然日記どころじゃない(しかも不定期だし)。でもなぜか、どうしても書きたくなってしまったので仕方なくタイピング。さっきまで外にいたので手がかじかんでいてうまく文字が打てない。寒いのにビールも飲んでる。矛盾、矛盾。そう。最近の私の行動、言動、気持ち、体はとにかく矛盾に溢れていて困ってる。私のことをよく知る人からは「思春期じゃないの」と冗談交じりに言われたけど、本当にそうなのかも。客観的に考えると幸せなはずなのに、なんか気分が乗らない。不思議!

そういえば、この日記を書きたくなる時はいつもこういう精神状態かもしれない。モヤモヤというより、メラメラしている感じ?欲求不満?ずっとそわそわしている。目の前のタスクには取り掛かりたくないけど、何か手を動かしたい。そんな時にここに言葉を吐き出しているのかも。そういう意味では、ホームページって本当に「home」だなと思う。自分のサーバーで自分だけのドメインで、自分でHTMLを組んで立ち上げた、私だけの場所。よく見ると変な余白とかあるし写真は変な風に動くし、別に見やすくもないけど。でもそういう「エラー」なところにちょっぴり誇らしさがある。その感覚はZINEを作りたいと思う気持ちにも似てる感じがする。デザインも写真もちゃんと勉強したわけじゃないし自信はあまりないけど、本になった時に「私はこれでいいんだ」と思える感覚。社会の中で本当に何者でもない私を、何者でもないままアウトプットできることの喜び。部分部分を切り取るとなに一つ十分にできていないけど、最初から全部やると総合点で土俵に上がれる、ということかもしれない。思えばずっとそういう生き方をしてきた気がする。

あ〜、何が言いたいのかわからないけど、つまりそういうこと。(こんな文章ばっかり書いているから、レポートがうまく書けるようにならないのかもしれない)もう0時19分になってしまったので、そろそろ終了しよう。次回はいつになるかな。

P.S. 気恥ずかしさと自虐を込めて、開設当初(2019年)からこのサイトのことを「化石サイト」と読んでいるけど、最近は本当にそうなるといいなと思う。現在の私の葛藤とかイタさとかそれゆえのかわいらしさとかが全部化石になって、掘り出された時には価値のあるものになっているといいな。それには何年かかるのかしら。というか、アーカイブ的に活用したいならもっと更新しろよ。以上です。



2021/11/15(月)☆☆☆☆☆
18時34分。この日記は基本的に深夜に書いているけど(基本的にと言えるほど書いていないよ)、今日は早い時間から働いたから早め。今日もお疲れ様でした。 コンスタントに書いているかのような文章量と内容の適当さなのに、前回は5月25日(火)。前前前回は2020年の5月24日(日)。ここまで伸ばすと、日記なのに何か特別な出来事がなければ書いてはいけない気がし、永遠に書けない。今日ももちろん特別な日ではないけど、筆という名の指(on the キーボード)が進むということは、今日は私にとって多少特別な日のかもしれない。

今日の出勤前、駅の改札を出たところでポケットからアメを出したら、ポケットに入っていたかなり大事なもの(大事すぎて言えない)を落とした。気づいたのはその10分後。ヤバイ!と思って駅まで戻って道を確認、駅員さんに聞くも、どこにもない。アメをなめた自分をこんなにも恨んだのは初めてだった(ちなみに、最後にアメをなめたことで自分を恨んだのは小学生の時。通常のふた回りくらい大きい小包装のアメを食べて、あまり美味しくないうえ、噛めないし全然なくならなかったこと)(大事なものを落としたことに気づく5分前くらいの私の肩に、トンボが止まって、スクランブル交差点を渡りきるまで私の肩にいた。それは今日の、ちょっとだけうれしかったこと)

仕事の帰り、気が気じゃない思いで駅の忘れ物センターに行き、そのあと交番に行ったら、警察署に届いていた。警察署って、初めて入ったんだけど、市役所みたいなところなんだね。落としものを受け取り「気をつけて帰ってね」と言われた。優しい言葉だよね、気をつけて帰った。 そして最寄り駅からの帰り道。いつも近所の大きな公園を通って帰るんだけど、今日は初めて公園内のカフェでホットワインを買って、半分公園で飲んだ。それはほんの10分間くらいだったけど、なんだかすごく長く感じた(日記、もう半年も書いてないのか〜の感覚より、ずっとゆっくり)。これって日常?非日常?今の私にとっては、非日常かも。でも、自分にとって心地よく感じる時間がイレギュラーでいいんだっけ?考え始めると焦る。

お腹が空いたので、とりあえず夜ご飯を食べます。



2021/5/25(火)☆☆☆☆☆
超絶インスタントだけど、1年ぶりにZINEを作った。簡単でもいいから、何かしら理由をつけて自分のために手を動かしたいと思った。結構癒された。いつか売ろ〜っと




2021/5/17(月)☆☆☆☆☆
久しぶりに日記を書くことにした。最後に書いたのは去年の5月24日だから、どちらかといえば日記というより年記だ。まあどっちでもいいけど。そんなことを考えながら、久しぶりに自分の化石のようなウェブサイトを開くと、日記ページの見出しに『<new!>普通の日記(2020/5/21~)(今度こそ続くといいなあ)』と書いてあった。わずか3日で断念している。去年の私、残念がってるだろうな。でも、人間そう簡単には変われないよね。そんな自分の(呆れるような)人間味を噛み締めつつ、書いています。

この1年間は本当にあっという間だった。物心着いてからいつもそう言っている気もするし、時間の感覚がどんどん早くなっているような感じもする。常に何かに追われてるようで、実際今日も、本当はやらなければいけないことが山積みで不安。でも、やらなきゃいけないことばかりやっていても、それはそれでどうにかなっちゃいそうなので、今、全然やらなくていいことをしてる(つまり、これ)。そういえば小さい頃に読んだ本に、「時間はタツマキ(もしくは螺旋階段)のように流れていて、上から下へグルグルと少しずつ流れが早くなっていく。一番下(タツマキの目の部分?)までいくと、なにか大きな出来事が起こって、リセットされ、また一番上から流れていく。」みたいなことが書いてあったのをなんとなく覚えている(うろ覚えだから、間違っているかもしれないけど)。もしも本当にそうだとしたら、今どこらへんなんだろう。コロナのことも政治のことも、なんかもうよくわからないから、その「大きな出来事」が早めに起こってくれるといいなと思う。

そんなことを書いていると今がとても大変で辛そうな感じがするけど、実際は毎日結構楽しい。つまづきながらもまあまあうまく生きていけているような気がしてる。楽しいことって記憶に残りにくくて、改めて文章を書いてみるとなかなか出てこないから、アイフォンに残っている楽しい写真で補おうと思う。悲しい写真は撮っていないから。ちなみに現在は、17:07で天気は曇り。小雨と霧を繰り返しているくらいの雨が降ってる。私の右の下瞼にはものもらいができていて、その鈍い痛みを気にしながらさっきまで近所の喫茶店で本を読んでいた。今週はずっと雨みたい。もう梅雨が来たのかもしれない。




2020/5/24(日)☆
今日の夜はアボカドと焼き豚のスパゲッティを作って食べた。わたしもやればできるじゃん!と思った。固めのアボカドって焼くと美味しくなるんだ、知らなかった〜




2020/5/23(土)☆☆☆
オイルサーディンって几帳面だなあ




2020/5/22(金)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今日は仕事の打ち合わせがあったから久しぶりに電車に乗った。帰りに果物屋さんでみかんとアボカドを買った。お店の人はかなり無愛想だったけど、関心がない感じではなくてあったかい感じだった。綺麗なお店だったけど、並んでる果物が本当に美しい、というか、高級品みたいに見えたし(値段はそんなに高くなかったけど)、果物の中になぜかアボカドがポンと置いてあるところとか、どことなく歴史を感じたから、このお店昔からあるんですかと聞いたら「昭和6年から」とぶっきらぼうに教えてくれた。かっこい〜。それから家に着いてすぐ、高校の時の製本の先生から荷物が届いた。庭でいちごが取れたから送ってくれたんだそうだ。いちごの他にも、自家製の焼き豚とか、お餅とか、ジャムとか色々入ってた。嬉しい。スカスカだった冷蔵庫が急に豊かになって、私も豊かな気持ちになった。




2020/5/21(木)☆☆☆☆☆☆☆☆
今日は20才の誕生日だった。待ちに待ったハタチだったけど、別に何も変わらなかった。朝は7時に起きてゴミを出して、無印にクッションを買いに行った。昨日と同じ道を通ったけど、別に何も変わらなかった。あまりにもいつもと変わらないから、ちょっと特別なことをしようと思って、ツタヤで、初めてDVDを買った。気になってた、ゴダールの「勝手にしやがれ」と「グーニーズ」、あと小さい頃からずっと観てた「オズの魔法使い」。なんとなく、長く持っておくものになるんじゃないかなと思って、ちょっとドキドキした。なんせ、一生に一度の20才の誕生日だしね。 夜は星野さんが遊びに来てくれた。家が近いから歩いて来たんだって。うれしい。誕生日って、よく考えたら別にそんな特別な日じゃないけど、でも前日の夜はソワソワするし、起きたら「あ、今日誕生日だ」ってふわふわするし、別に特別にお祝いしてくれなくてもいいけど、連絡くれる人がいたらうれしいし、なんかいいなと思った。キリスト教じゃないのにクリスマス祝うし、ハロウィンに仮装するし、バレンタインの由来もろくに知らないのにチョコ交換するし、そうやって関係ないのにいちいちお祝いする日本の文化、ミーハーだけどちょっと好きだ。なんでもない日にお祝いしても別にいいしね。話が逸れたけど、なんだかんだでちゃんと20才になれて安心した。でも昨日まで19才だったのに、明日からは当たり前の顔をして20才として行きていくのは、なんか不思議だ。別になんにも変わらないのに。当たり前といえば当たり前なんだけどな〜。変なの!

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